第 205 回社会科学習会の報告

 2025 年 10 月4日(土)、時折雨が降る涼しい天候の中、かねてから予定されていた荻窪・荻外荘巡検を行うことができました。今回の講師は、杉並区がホームタウンの峯岸誠先生です。峯岸先生はこれまで、荻外荘の保存と公開の実現をライフワークとして取り組まれてきました。その巡検の様子をご報告いたします。

1.郊外住宅地の面影をめぐる

集合場所の荻窪駅を出発し、初めに旧青梅街道の踏切跡を見ました。現在の青梅街道は荻窪駅のさらに東側(天沼陸橋)で交差していますが、かつては踏切で中央線の南北をまたいでいたそうです。戦前の地形図では、荻窪駅の南側には路面電車(西武鉄道新宿線)が走っていたことも分かりました。

次に、「中田家長屋門」を見ました。江戸時代の名主で、将軍の鷹狩りの休息所となった経緯から、特別に武者窓を持つ長屋門を持つことを許された経緯があるそうです。同じ場所には明治天皇の御小休所もあり、これらは中田家から敷地を藤澤氏(現在の持ち主)に譲渡した際、これだけは残してほしいと依頼されたものだそうで、現在の場所に移築されています。

移動中雨が強くなってきましたが、次に訪れたのが「西郊ロッジング」です。1938 年に建築されたカーブのある2階の外観と、ドーム型の屋根が特徴的なこの建物(新館)は、現在もアパートとして使用され、奥にある本館は旅館になっています。

続いて、太田黒公園を訪れました。日本にドビュッシーやストラヴィンスキーの名を紹介し、NHK ラジオ番組で活躍した音楽評論家、文化功労者の太田黒元雄邸を杉並区が日本庭園に整備したものです。太田黒家は元雄の父が現在の東芝の経営に携わり、その後水力発電事業で財を成したため、裕福な暮らし向きだったようです。敷地内には井戸があり、そこから日本庭園の池泉に水が流れていました。地形的には崖線の上に邸宅があり、崖線の斜面が庭園のため、変化や見通しのある景観でした。

2.荻外荘

荻外荘は、2016(平成 28)年に国の史跡として指定されました。荻外荘の隣には隈研吾氏の設計による「荻外荘展示棟」もあり、歴史を学ぶことができます。荻外荘は 1927(昭和 2)年に大正天皇の侍医頭・入澤達吉の別邸として建てられ、その後本邸となりました。1937(昭和 12)年に入澤より譲り受けた近衞文麿が移り住んでからは、さまざまな政治の舞台となりました。設計は入澤の義弟でもある建築家の伊東忠太です。

入澤は洋式の椅子生活を推進した人物としても知られています。そのためか建物の天井も高く、身長が高かった近衞はこの点を気に入り、また、政治の喧騒から離れゆったりとくつろげる自然環境を気に入ったとされています。

玄関棟の中には西園寺公望の筆跡による「荻外荘」の扁額が掛けられ、記者を呼び出す際に用いられた太鼓が置かれています。応接室には、龍のレリーフが刻まれたタイルが敷かれ、螺鈿の椅子が置かれています。

客間は、1940(昭和 15)年 7 月 19 日、日中戦争が長期化する中で戦争路線の方針を決める「荻窪会談」が行われた場所で、当時の様子が復元されていました(玄関棟と客間棟は、豊島区から移築復元した)。近衞が自決した書斎は、当時のままだそうです。館内ではタブレットを使ったVR映像で、当時の様子を見ることができます。邸宅の一段下にある、現在は芝生になっている荻外荘公園は、丸ノ内線を開削した際に出た土砂を使い埋め立てたそうですが、もともとは池があり、その当時の景観をタブレット越しに見ることもできました。

<参考文献>

・全国 Q 地図.” https://info.qchizu.xyz/

→今回の資料作成に使われた、地理院地図、今昔マップ、航空写真など、様々な地図を一つのサイトから重ね合わせることができる便利なサイトです。

・荻外荘公園「荻窪三庭園」. https://ogikubo3gardens.jp/tekigaiso/ 

・杉並区「荻外荘復原・整備プロジェクト」.https://www.city.suginami.tokyo.jp/fukugen/index.html 

社会科学習会ホームページ

社会科学習会は、若手教員を中心に、中学校社会科の指導法や教材開発等について学びを深めたい人たちが集う会です。会長の峯岸誠先生(元 玉川大学教授、元全中社研会長)、岩谷俊行先生(元全中社研会長)のもと、東京都内で基本的に月一回定例会を開き、年に一回は巡検を行っています。学習会への参加は随時受け付けています。社会科の力を付けたい先生方、一緒に勉強しましょう!

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