前編から続く~1月21日(土)14時から,新宿山ノ手七福神をめぐるミニ巡検に出かけてきました。
今回の目的は七福神に会うこと…はもちろんですが,地形にも大いに注目した巡検でした。
リンク先の地理院地図(別ウインドウ)をご覧いただきながらお読みください。
稲荷鬼王神社を後にした後は,北上し大久保通りへと歩を進めました。区立大久保小学校のあたりには,小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)終焉の地,小泉八雲記念公園があり,このあたりから街の中にハングルが多くなってきました。言葉も,韓国語や中国語などが多く聞こえましたが,大久保通りに入ると,韓国系の店ばかりではなく,アジア各地の料理店などが見られ,多国籍化している街の印象を受けました。
大久保通りを東上すると,北側に都営戸山ハイツの団地群(都立戸山公園箱根山地区)が出現しました。この辺り一帯は尾張徳川氏の下屋敷があったところです。(江戸切絵図参照,北を上に向けると,分かりやすくなります。これまでたどってきた寺院の名前も見えますね。)この地区の名称にもなっている箱根山は築山で,下屋敷時代に回遊式庭園の一部として作られたようです。
山頂の水準点の標高は44.6mで,山手線内で最高地点なのだとか。
せっかくなので登頂の証に,参加者で記念撮影をしました。
本題に戻り,大久保通りをまた東上し,牛込柳町駅の付近にある経王寺(大黒天)を目指します。経王寺のすぐ先には谷があるため,急な坂道に入ったところにお寺がありました。寺には打ち出の小槌があり,願い事を唱えながら皆で小槌を振りました。
また,この経王寺から東に少し行った柳町病院の裏手には,新選組の面々が学んだ天然理心流道場の試衛館跡があります。こちらにも立ち寄りました。
さあ,七福神最後の毘沙門天(善国寺)を目指し,進みます。牛込三中(旧府立四中跡地)の通りを進む中には,茶道裏千家の会館や事務所などもありました。この辺りは加賀町と言い,江戸切絵図(左か右に2回転させると,わかりやすい)を見ると「此邊加賀屋敷と云う」とあります。加賀藩の屋敷は見当たりませんが,切絵図の凡例部分には「嘉永四」の文字があることから,1851年の幕末(ペリー来航の2年前)に作られたものであることがわかります。江戸時代のもっと前には存在していたのでしょうか。この道をまっすぐ進むと,御納戸町,拂(払)方町といった,今も残る地名があることから,牛込中央通りの位置が特定できます。そこからさらに進むと,「御徒組」の文字が見られます。この通りは東西に一本道で,南北の路地がありません。江戸時代,通りに面する形で屋敷を並べていて,これが私有地になる際に南北の道が作られなかったことに由来するようです(詳しくは,過去の巡検記事をご覧ください)。現在の地名は,牛込北町,中町,南町となっています。
ここから善国寺まではあと少し。江戸切絵図にも「善國寺 毘沙門堂」の文字が見られます。地理院地図を見ると,善国寺は台地の先端のあたりに位置し,地下鉄東西線神楽坂駅から飯田橋駅にかけては,台地と谷の入り組んだフタコブラクダのような地形になっています。神楽坂界隈は土曜の夕方ともなるととてもにぎわっていました。
ということで,およそ3時間をかけて,めでたく山ノ手七福神とお会いすることができました。
今回の巡検報告は,歴史や地理の授業で地図の活用をする一つのヒントとなるように,まとめました。このように,実際に歩いた土地と,地形図や古地図を組み合わせて見ると,また新たな発見があります。もしこのブログをご覧になり,お近くの学校で地形図や江戸切絵図を使った実践につながりましたら望外の喜びです。また,実践を行った場合はぜひお知らせいただき,社会科学習会で発表していただけたらと思います。
次回は2月25日(土)15時から,牛込第一中学校会議室にて,会員の実践発表を行います。
効果的なコミュニケーションや表現をするための汎用的なスキルを獲得させることや,協働的な課題解決のためのコミュニケーションを創出する力の育成などをテーマとした,文科省の新教科開発研究「コミュニケーションデザイン科」に取り組まれているお茶の水女子大学附属中学校の渡邊智紀先生に,コミュニケーションデザイン科と社会科をテーマにした実践発表をしていただきます。
0コメント