10月11日に、都内巡検として、「東京の尾根と谷(5)玉川上水を歩く」が、多摩川と生きる昭島市民の会の西山嘉文氏を講師にお迎えし、実施されました。その記録をご参加の先生がまとめてくださいましたので、それをもとに一部再構成して、巡検の様子をご報告いたします。
―私自身、昨年度の都中社の夏季巡検で羽村取水堰に行ったり、市教研で田村酒造に行ったりと、最近改めて、玉川上水に行く機会が増えていた。今回の巡検は、羽村から拝島まで多摩川が上水を歩くので、興味をもって参加した。しかし、西山氏を講師とする巡検は、「東京の尾根と谷」をテーマとしているが、「玉川上水のどこが尾根と谷なのだろう?」と疑問を感じ、さらに、事前の連絡で、「玉川上水は段丘を登るのか?」とクエスチョンが提示されたり、スマホに「地理院地図」を入れておいてと指示があったりしたため、謎はさらに深まった。
羽村駅に集合し、羽村取水堰へ向かう途中、何段もの段丘崖を下る。
途中に、禅林寺(『大菩薩峠』の著者中里介山の墓がある)のお寺坂に馬の水飲み場の跡がある。急な坂を上る馬のために、段丘崖の湧水を利用してつくられたものらしい。
多摩川に着く手前の玉川水神社を見学。隣の東京都水道局羽村取水管理事務所は、玉川上水羽村陣屋跡に建てられている。江戸時代から変わらず、堰の管理を行っていることにびっくり。
羽村取水堰に着くと、連日の雨で、川は濁り、水量が増えている。
多摩川が大増量すると、玉川上水の水門と洪水を防ぐために造られた投渡堰が「払い作業」されることがあるが、この程度の雨では、「払い作業」されていなかった(2019年10月12日の台風19号の大雨の際には、「払い作業」が行われた)。しかし、第1水門と第2水門の間にある小吐口からは、大量の余分な水が、多摩川に戻されていた。
ここから、玉川上水沿いに歩き始める。
その前に、地理院地図をチェック。標高は「128.0m」。拝島駅に着くまでに、どのくらい下がるのだろう?
すぐに、第3水門が見えてくる。この水門は、玉川上水の水を村山貯水池に流すために、造られた。私の感覚では、羽村よりも狭山丘陵の村山貯水池の方が標高が高いような感じがするが、水が流れていくということは、村山貯水池の方が標高が低いということ。そこから、東村山浄水場できれいにされた水が、東京都の水道の18.4%を担っている。
それだけの水を取られてしまった玉川上水は、一気に幅が狭くなる。さらに、左岸の奥多摩街道の向こうには、段丘崖が迫る。羽村橋を過ぎ、堂橋の辺りから、右岸も上り坂になる。玉川上水は、かなり掘り込まれ、下の方を流れている。左岸の段丘崖も見られなくなっている。さらに歩いて行くと、新堀橋へ。新堀橋は、その名の通り、玉川上水の完成から約90年経った元文5(1740)年に作られた新堀に架かる橋であり、その近くには廃棄された旧堀跡がある。
旧堀は、多摩川の出水によって、上水の土手がしばしば倒壊し、通水に支障が生じる恐れもあり、新しい水路が作られたとのこと。
加美上水橋と過ぎ、宮本橋までいくと、手元の標高は「124.0m」に。ここで、宮本橋を渡り、左岸の奥多摩街道を歩く。宮本橋の先には、幻の酒「嘉泉」で有名な田村酒造がある。酒造りの水は、敷地内の井戸から汲まれる硬水の秩父奥多摩伏流水を使用しているが、敷地内には、慶応3(1867)年、分水開設の願い出を出し作られた田村分水が流れる。田村分水によって、水車により、精米・製粉などを行うようになった。田村分水は個人分水であり、大名屋敷に流れるものを除いては、個人分水は、この田村分水と立川の砂川家の源五右衛門分水だけという珍しいものである。奥多摩街道側から玉川上水を挟んで、田村分水の取水口の写真を撮る。
清巌院橋で玉川上水を右岸へ渡るが、坂(この坂は段丘崖)を下って、中福生公園で休憩。 青梅橋の手前に、熊川分水口があるが、雑草に覆われ、私は見に行くことができなかった。奥多摩街道の南側は、段丘崖になっている。4階建ての福生三中が下に見えるほどの崖の高さ。崖下には湧水があり、ほたる公園がある。多摩川はずっと遠くなり、玉川上水が多摩川とは違う段丘面を流れていることを実感する。
青梅橋を渡り、玉川上水や奥多摩街道から離れ、JR青梅線沿いに水喰土(みずくらいど)公園へ。砂礫層のため、玉川上水の水を吸い込んでしまい、北側に玉川上水を作り直すはめになったという。
国道16号線をくぐりながら日光橋公園を通り、拝島駅北口の日光橋に出る。八王子千人同心が日光勤番の際に使った日光脇往還の橋なので、日光橋と名付けられた。明治24(1891)年に架け替えられたレンガアーチ橋。
この少し下流に、殿ヶ谷分水の取水口があるが、この標高は「119.3m」。3時間近く歩いて、10mも下がっていない。玉川上水の傾斜の緩さを改めて実感。この殿ヶ谷分水は、これまでの田村分水、熊川分水とは違う点がある。それは、これまでの分水は、玉川上水の右岸(多摩川側)にあったが、殿ヶ谷分水は、左岸にあるということ。左岸側は玉川上水よりも高かったが、ここに至り、左岸側も玉川上水より低くなり、水を流せるようになったということ。
ゴールの拝島駅以降も玉川上水は、残堀川と立川断層を横切り武蔵野台地との分水嶺ともいえる玉川上水駅付近の小平水衛所跡に達する。この位置に達しなければ、玉川上水は、江戸城に達せず、野火止用水への分水もできないそうである(追補:玉川上水駅~小金井公園あたりまでは、この地域の尾根となっていて、玉川上水はそこを通している)。 この地域で育った私にとって、玉川上水は身近なものであったが、自転車などで通るだけだったので、改めて歩いてみると、いろいろな発見があった。 (記録:武蔵村山市立中学校 M先生)
<巡検で使用した地図>
・凸凹地図でみる玉川上水(東京地図研究社作成)
・赤色立体地図(アジア航測株式会社作成)
・玉川上水散策地図(Kousuke Kimura氏作成)
・玉川上水周辺の等高線(Google Earth,地理院地図,保坂幸尚氏作成)
・玉川上水の現況(東京都水道歴史館作成)
・上水記(東京都水道歴史館所蔵)
・地理院地図
<主な参考資料>
・角田清美「羽村取水堰付近の地形と、玉川上水の水路」
(羽村市郷土博物館編『玉川上水羽村堰 ~今に生きる先人の知恵と工夫~』2015年)
・「みずくらいど」(福生市制15周年にあたり、福生市史編纂事業の市史研究誌として刊行)
https://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/index11.html
・角田清美「水喰土を自然地理学の立場から調べる」(「みずくらいど」3号 1986年)
https://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/08/03/0003.pdf
・角田清美「玉川上水を土木技術の立場から調べる」(「みずくらいど」5号 1987年)https://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/08/05/0007.pdf
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