第183回学習会の報告

 第183回社会科学習会は、令和5年7月27日(木)に日本銀行本店本館と日本銀行金融研究所貨幣博物館の見学を行いました。猛暑の中、日本銀行本店にある4つの門の一つ西門に集合しました。受付時間になるまで日本銀行金融研究所歴史研究課貨幣博物館グループ長の福山泰弘様の計らいで貨幣博物館入口ロビーに待機させていただきました。受付時間になり、日本銀行本店西門の見学者入口で身分証を提示し、X 線による手荷物検査を受けて入館しました。見学開始前に東京都金融広報委員会事務局長岡崎竜子様はじめ事務局の皆様からご挨拶をいただきました。以下、見学の概要を紹介します。

1. 日本銀行本店本館

 見学の始めに、日本銀行の役割についてのビデオを鑑賞しました。我が国唯一の発券銀行として日本銀行券の発行・流通・管理をどのように行っているか、国民生活の安定と経済の持続的な発展のための金融政策や銀行の銀行としての役割、政府の資金の受け払いや国債に関する業務など政府の銀行としての取り組みについて解説されていました。

(1) 2階展示室

 2階は、竣工当初、役員フロアとして作られました。上の集合写真の撮影場所(正面玄関)の上にはドームがあり、2階のドーム下の部屋は八角室と呼ばれ、昭和初期まで重役会議等に使用され、1 5代結城豊太郎総裁の時には、総裁室として使用されました。現在は、展示室として中央に旧日本銀行本館の模型がおかれ、日本銀行の歴史や業務で使われてきた拍子木、本館の建物の構造、建築を担った辰野金吾と弟子の長野宇平治に関する資料が展示されていました。

 明治維新以降、積極的な殖産興業政策を展開していた政府は、財政的基盤が不安定な中、資金の調達を不換紙幣の発行に依存しました。明治10(1877)年2月に西南戦争が勃発し、大量の不換政府紙幣、不換国立銀行紙幣が発行されたことから、激しいインフレーションを招いてしまいました。そこで明治14(1881)年、大蔵卿(現在の財務大臣)に就任した松方正義は、不換紙幣整理のため、正貨兌換銀行券を発行する中央銀行を創立し、通貨価値の安定を図るとともに、中央銀行を中核とした銀行制度を整備することを提議しました。明治15(1882)年6月、日本銀行条例が制定され、同年10月10日、日本銀行が業務を開始しました。日本銀行は、各地の国立銀行(民間銀行)等と契約を結び、一つのネットワークとして結び付けました。明治18(1885)年、銀行券を一元的に発行し、貨幣の価値を安定させる役目を担いました。

 日本銀行は、永代橋際(現在の日本橋箱崎町)にあったイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された北海道開拓使物産売捌所(関東大震災で消失)の建物を本店として開業しました。手狭で、官庁や商業・金融の中心地からも離れていたため、現在の本店の場所である日本橋本石町に新築移転することとなりました。コンドルの弟子である辰野金吾によって設計され、明治23(1890)年着工、明治29(1896)年3月に落成しました。辰野金吾は、本店の他に9つの支店建築にも力を尽くしました。弟子の長野宇平治は、関東大震災後の本館復旧工事や増築工事、各地の支店新築に関わり、辰野金吾の意志を継いだ建築を行いました。

 2階廊下には、歴代総裁の肖像画(初代吉原重俊総裁~26代三重野康総裁)と肖像写真(27代松下康雄総裁~31代黒田東彦総裁)が掛けられていました。4代岩崎彌之助総裁、7代高橋是清総裁、16代渋澤敬三総裁などの名前を拝見し、政治と経済との関係の中で日本銀行の歴史が積み重ねられていることを感じました。

(2) 地下金庫

 本館地下1階には地下金庫があり、入口には、厚さ90センチ、重さ25トン(扉15トン、外枠10トン)の鉄製の扉がありました。地下金庫は、明治29 (1896)年から平成16(2004)年6月まで、108年間使われていました。扉を開けた中には、回廊といくつかに別れた金庫室がありました。創建時のイギリス製扉の前で金庫についての説明をしていただき、展示物を見学しました。イギリス製金庫扉の掲示物に「辰野金吾は西洋技術を日本で育成・定着させるため、イギリス製の金庫扉を購入し設置させると共に、それを元に国産の金庫を制作させた。」と書かれていました。

 地下金庫見学後、免震化工事についての説明を受けました。東日本大震災後、首都直下型地震等による被害想定が変更になり、耐震安全性の確保と中央銀行としての業務継続力を強化する目的で免震化工事が進められました。平成28 (2016)年10 月から免震化工事が開始され、令和元(2019)年6 月に竣工しました。本館の建物は、鉄筋や鉄骨を使うことなく、外壁の石と内側の煉瓦を地下階から3階まで積み上げた石積煉瓦造でできており、厚さ約2.6 m の強固なラップルコンクリートと呼ばれる基盤の上に載っているとのことです。その基板の周囲と下に空間を設け、その空間の下に新しい土台をつくり、土台と基盤の間に免震装置を設置する工事が行われました。石積煉瓦造で建物ができている様子を見られるよう床の一部がガラス張りになっているところに案内され、観察することができました。

(3) 客溜

 1階に戻り、客溜と展示物を見学しました。窓口のあった客溜の空間は、2 階まで吹き抜けで、2 階の天井はガラス天井になっていました。竣工時は、その上にガラス屋根があり、自然光を取り入れて明るい空間としていました。客溜には古典主義様式の装飾が施されていました。現存するものは関東大震災後に明治期の姿を復元したものです。

 銀行窓口の一部には、営業の様子を写したパネルが展示されていました。

 1階には、日本銀行の機能や震災が起こったときの中央銀行としての役割についての展示がありました。中央銀行として日本銀行券を発行し、物価の安定と金融システムの安定に努めるための様々な業務に関する資料が示されていました。日本銀行には、国内に本店、32 支店、14 事務所、海外に7 駐在員事務所があり、4600名余が勤務しています。そのうち本店では、2700名余が働いています。明治15(1882)年10月10日の日本銀行開業時は、行員が15名であったとのことです。

 阪神・淡路大震災の発生当日、定時に営業を開始し、店舗が倒壊した金融機関に臨時窓口を提供し、東日本大震災の発生15分後に災害対策本部を開設し、濡れたお札の引き換えにも迅速に対応し、金融機関や被災地域の方々が困らないように中央銀行として様々な取り組みをしていることが説明されていました。


2.日本銀行金融研究所貨幣博物館

 日本銀行本店本館見学の後、日本銀行金融研究所貨幣博物館を館長・福山泰弘様の案内で見学しました。日本銀行金融研究所貨幣博物館は、貨幣および貨幣に関する歴史的、文化的な資料を収集・保存し、それらの調査研究を進め、その成果を公開している施設です。

 貨幣博物館展示室の入口に貨幣博物館を開館するために大きな役割を果たした田中啓文(1884~1956)、渋澤敬三(1896~1963)、郡司勇夫(1910~1997)の写真と説明が掲示されていました。

 大正12(1923)年、古銭収集・研究家の田中啓文が銭幣館を開館しました。子供の頃に寛永通宝が1厘として通用し、お小遣いでもらったいろいろな小銭を集めたのがきっかけとなり、田中啓文は古銭収集・研究家となりました。銭弊館には、古貨幣や日本の貨幣史、経済史を研究する上で重要な文書、絵画、民俗資料など総数1 0 万点が収蔵されていました。

 昭和19(1944)年、貨幣館の収蔵品を戦禍から守るため、日本銀行の第15代結城豊太郎総裁、第16代渋澤敬三総裁と交流があった田中啓文は、収蔵品を日本銀行へ寄贈しました。民俗資料の収集・研究家でもあり、文化財保護に理解があった渋澤敬三総裁は、収蔵品の受け入れと同時に、当時銭弊館で資料の整理・研究に携わっていた郡司勇夫を専門家として迎え入れ、受け入れた資料の整理・研究を続けられるようにしました。郡司勇夫は、昭和22(1947)年5月、貨幣館が所有する金貨や銀貨がGHQ の接収対象となった時、交渉に当たり、文化財として公開することを条件に接収されることから逃れることができました。昭和4 7(1972)年から昭和51(1976)年にかけて刊行された『図録 日本の貨幣』(日本銀行調査局編、全11巻)を執筆・編纂しました。こうした研究成果をもとに日本銀行創立百周年(昭和57(1982)年)を記念し、昭和60(1985)年11月貨幣博物館が開館されました。

 展示室に入ると半円形に「古代」から「中世」「近世」「近代」「現代へ」とお金がどのように作られてきたか、人々の生活の中でどのように使われてきたか展示されています。来年7月に発行予定の日本銀行券(見本券)を展示した「新しい日本銀行券」や銭弊館開館1 00年を記念した「啓文さんのミュージアム」の特設コーナーもありました。

◆古代―金属のお金の始まり

 律令国家を目指した日本は、7世紀後半から1 0 世紀半ばまで金属製の銭貨を発行しました。無紋銀銭や富本銭が作られました。『日本書紀』天武天皇12 (683)年に書かれている「今より以後、必ず銅銭(富本銭)を用いよ。銀銭(無紋銀銭)を用いることなかれ。」が紹介されていました。和同開珎など奈良時代に発行された様々な銭貨と銭貨の使われ方が記された木簡が展示され、ものの売買に使われ、物価の上昇に苦しむ下級役人が役所から借金していた様子が分かりました。銅の産出量の減少により銅銭が粗悪となり人々から嫌われ、10世紀後半からは乾元大宝を最後に銅銭が発行されなくなり、米や絹などがお金として使われるようになったことが説明されていました。

◆中世―海を越えてきたお金

 12世紀半ばから16世紀の日本では、中国から流入した銭貨(渡来銭)が使われました。北宋(960~1172)、南宋(1127~1279)、明(1368~1644)などから輸入した様々な貨幣が展示されていました。教科書では、鎌倉時代や室町時代に中国からお金が輸入され、流通させていたことが記述されていますが、生徒はなぜ中国のお金が流通するのだろうと疑問に思います。中国の銭貨1枚を1文の価値として流通させていたことや撰銭令が出された背景などが説明されており、生徒にとっても理解しやすい展示となっていました。

◆近世―ゆるやかなお金の統一

 16世紀後半から19世紀半ばまでの中国銭貨に変わる日本独自のお金が流通する様子が展示されていました。豊臣秀吉が彫金師の後藤家に作らせた天正大判(天正菱大判)が輝いていました。徳川家康は、全国の金銀銅山を直轄し、大きさ・重さ・品位(金銀の含有率)などを統一した金貨・銀貨を発行しました。中世から使われていた銭貨は、寛永通宝に統一されました。幕府による貿易での金銀銅の扱いや流通の様子、両替屋の役割、金貨・銀貨の改鋳や銭貨の移り変わり、藩札や商人が発行した羽書(私札)などの説明がありました。

◆近代―「円」とにちぎん

 幕末開国による経済への影響や明治維新期の政府の貨幣や各藩の藩札、新たに設けられた府県の紙幣、為替会社の紙幣などが展示され、紙幣の増発による紙幣価値の下落について説明されていました。1871(明治4)年、明治政府は、新貨条例を制定し、「円(圓)」を新しい貨幣単位とした近代様式製法による金貨・銀貨・銅貨や紙幣を発行し、新たに設立された国立銀行(兌換紙幣を発行する民間銀行)や法令改正によってできた私立銀行が様々な紙幣を発行しました。西南戦争の戦費をまかなうための政府紙幣や国立銀行紙幣の増発によるインフレーションを立て直すための松方正義の財政改革や日本銀行の設立、日本銀行券の発行の経緯が説明され、関係資料が展示されていました。明治30(1897)年に金本位制が導入され、昭和6(1931)年に日本銀行券と金貨との兌換が停止され、昭和17(1942)年に金本位制から離脱し、管理通貨制度に移行した経緯が解説されていました。第二次世界大戦後、昭和21(1946)年に政府は新円に切り換えましたが、復興費用を日本銀行券の増発でまかなったことで激しいインフレーションが発生しました。昭和24(1949)年、ドッジ・ラインと呼ばれる緊縮政策がとられ、インフレーションは収束しました。

◆現代へ―現代のお金

 貨幣は、21世紀の今日まで、時代の移り変わりの中で姿形や使われ方が様々に変化し、人々の生活を支える役割を担ってきました。来年の夏には新しい紙幣が発行されます。キャッシュレス時代を迎える中での新紙幣ですが、人と人とをつなぎ続けた役割は変わらず継承されるように思います。

 現代の私たちにとってもお金は、私たちの生活を支える大きな役割を担っています。日本銀行の金融政策は、日本の経済活動や国民経済の基盤となるものであり、私たちの生活に大きい影響を与えるものです。日本銀行金融研究所貨幣博物館を見学し、お金の価値を安定させることが日本銀行の大切な役割であることを改めて認識しました。

社会科学習会ホームページ

社会科学習会は、若手教員を中心に、中学校社会科の指導法や教材開発等について学びを深めたい人たちが集う会です。会長の峯岸誠先生(元 玉川大学教授、元全中社研会長)、岩谷俊行先生(元全中社研会長)のもと、東京都内で基本的に月一回定例会を開き、年に一回は巡検を行っています。学習会への参加は随時受け付けています。社会科の力を付けたい先生方、一緒に勉強しましょう!

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