第180回学習会の報告

 第180回社会科学習会は、令和5年4月16日(日)に「東京の尾根と谷⑧ 武蔵野台地の水利と井荻町土地区画整理事業―杉並の偉人 内田秀五郎の業績―」と題し、井荻駅~荻窪駅間の巡検を行いました。天候不順により、当初予定されていた土曜日から日曜日にスライドしたため、現役の先生方の参加が少なかったのは残念でした。以下に巡検の概要を紹介いたします。

1. 内田秀五郎(うちだ・ひでごろう)とは

 杉並区ホームページによると、内田秀五郎は上井草村に明治9年(1876年)に生まれ、明治40年(1907年)5月、30歳で井荻村長に就任。後に町長となり、昭和3年まで務めました。後に都議、都議会議長ほか、多くの役職を務めました。

 内田は、井荻村長・町長として道路や街路灯、水道の敷設、駅の誘致など都市基盤の整備の他、農業、教育、経済、産業など幅広い分野の発展に貢献しました。特に井荻村で行われた土地区画整理事業は、村長だった秀五郎が中心となって、村全域を対象とし計画されました。秀五郎は近い将来の都市化を見越して区画整理の必要性を説き、大正14年(1925年)9月に「井荻村土地区画整理組合」を設立。反対派を説得のうえ、昭和10年(1935年)、約10年間をかけて事業を完了したそうです。

 土地区画整理事業とは、道路、公園、河川等の公共施設を整備・改善し、土地の区画を整え宅地の利用の増進を図る事業*のことです。(*出典:国土交通省都市局市街地整備課HP)類似の言葉に土地改良事業がありますが、これは農地としての用途に限った圃場整備であって、井荻地域においては、のちに宅地として転用可能となることも見越して、土地区画整理を行いました。自然地形に沿って作られている農地や曲がりくねった道を整え、まっすぐな区画や道路に整えるためには、耕地の一部を提供しなければならなくなることもあるため、耕地所有者の反対も多かったようですが、住民とよく話し合うことや、土地区画整理と並行して村内全域に電灯を敷設させること、善福寺池を水源とする上水道工事に着手することなど、地域での生活のしやすさや土地の価値を高めるための取り組みも行いながら、区画整理を進めていきました。

 巡検の配布資料には区画整理前後の様子がわかる地図が紹介されていました。「今昔マップ」でも、類似の時代の地形図を比較することができるので、見ていただくと区画整理前後の違いが一目瞭然です。

2. 巡検の内容

(1) 区画整理前の痕跡をたどる―下井草地区

 今回の資料として、峯岸先生ご作成のしおり、「杉並区史跡散歩地図」、「すぎなみ ある区マップ」を頂戴し、井荻駅から巡検をスタートしました。


 まずは土地区画整理事業についての基本的なお話を伺った後、当時の川の痕跡である井草川遊歩道を歩きました。現在は暗渠となっていて、「科学と自然の散歩みち」という名称で呼ばれています。小柴昌俊博士がノーベル賞受賞および名誉区民となったことを記念して整備されたそうで、小柴さんの手形が彫られた夢のたまごというオブジェなどもありました。

 水は地形の低いところに集まり、川が形成されますが、井草川もこの地域の地形に沿って形成されています。等高段彩図と遊歩道の位置関係を見てみると、一目瞭然です。

 途中、遊歩道と一般道が南北に直交する場所で、いくつかの発見がありました。一つは、遊歩道が川であった痕跡です。右の写真の石柱の銘板には「学校前橋」という文字が書いてあります。つまり、川に道を通すために橋が架かっていたということが分かります。

 もう一つは、以前から疑問に思っていた「杉並区の南北に通る道はなぜかアップダウンが激しい」理由が分かったことです。これは、もともと尾根(台地)と谷(低地・川)である地形のところに、区画整理によりまっすぐな道が通されたことによるものなのです。

(2) 残される農村風景と水景―清水地区

 妙正寺池を目指す途中に、遊歩道から少し外れると、「田中家長屋門」が残されていました。本来長屋門は武家以外の家では建てることができませんでしたが、江戸時代後期になると、領主の許可により村役人(名主・年寄・組頭)層も建てられるようになりました。この長屋門には、庶民には禁止されていた出格子作りの武者窓がつけてあるのが、特徴です。

 ここからしばらく南西方向に歩くと、妙正寺川にたどり着きます。さきほど登場した井草川は、妙正寺池付近で、この川に合流しているそうです。妙正寺川は、妙正寺池の湧水を水源としていますが、現在の妙正寺池は人工的に揚水しているそうです。江戸時代も水量がさほど多くなかったようで、江戸時代に入ると千川上水から(切通し口~井草川経由で、また、ひしゃく屋口・清水口から)田畑に給水しながら、妙正寺川へ引水するようになったそうで(参考資料:すぎなみ学倶楽部 青梅街道に沿って流れていた「半兵衛・相澤堀」)、付近には、この水路の痕跡と思しき遊歩道もありました。

 現在の妙正寺池は公園となっており、区民の憩いの場として多くの人が過ごしていました。

 川の名前にもなっている「妙正寺」は、池のすぐ南にある、日蓮宗の寺院です。境内には稲荷神社や瘡守神社も一緒に鎮座していました。また、地域の名士の(名主の井口家関連と思われる)お墓も多数ありました。

 妙正寺から荻窪駅方面に南下する途中にも、別の長屋門(井口喜容家)があり、往時の農村風景を思い起こさせます。また、清水地区には現在でも生産緑地や近郊農業がおこなわれている場所が点在しており、農村だったころの面影を残していました。


 ところで、「清水」という地名の由来は、やはり湧水に由来しています。清水一丁目にある清水の井戸は、この地域に数か所あった湧き水の一つです。この地域の湧水は、きれいで水温が低かったため田には向かないとされ、昭和初期には客土をして畑にしてしまうこともあったようですが、現在は浅い掘り井戸のような形に整備されています。地形図を見てみると、やはりこの湧水源も、武蔵野台地と低地の境目に湧いていたのでした(前掲の地形図の「清水一丁目付近、標高点・44のあたりを参照)。

(3) 文学にも登場する天沼地区

 杉並区は明治時代の終わりごろ、豊かな環境にほれ込んだ学者や財界人などから、都心に住みながら新たな邸宅を建てるための「別荘地」として人気を集め始めます。1923(大正12)年の関東大震災をきっかけに都心から郊外に人口が移動し、荻窪の宅地化が進みました。電気や水道などの都市基盤が整った住宅地である荻窪には、井伏鱒二などの文化人、子弟教育に熱心な住民が多く移り住みました。

  作家太宰治が一時期生活し、「HUMAN LOST(人間失格の原形)」などを執筆した碧雲荘跡は、現在は福祉関係の複合施設(ウェルファーム杉並)となっていました。碧雲荘は現在、「ゆふいん文学の森」に移築されています。

 住宅密集地である天沼地区には碧雲荘跡のほか、天沼の地名の由来になった弁天池(桃園川の源流)がありました。現在は祭られていた弁天様も公園の外に作られた祠に移され、宅地化によって水は湧いていないため人工の池のようですが、「天沼弁天池公園」として整備され、郷土資料館分館が置かれています。(参考:天沼八幡神社HPに、昔の弁天池に関する記述がありました。)

 また、この公園の地下付近では、洪水に備えて新たな地下幹線(暗渠になっている旧桃園川(桃園川幹線)の水位を洪水発生時に下げ、地域の浸水を防ぐ役割のための水路)の建設が進んでいました。杉並区では、台風などの大雨の際にたびたび洪水が発生してきました。杉並区のハザードマップを見てみると、やはり低地での洪水発生が予測されています。台地と低地が混在する地域ならではの課題と言えるでしょう。

 荻窪駅に向かう最後に通ったのが、「荻窪教会通り商店街」です。作家 井伏鱒二の作品にも登場し、昭和の雰囲気と建物が残る狭い道には個人店が多く、多くの人で賑わっていました。その一方で、緊急車両が通れないほど道幅が狭く、古い建物が多い場所ですので、地震等の災害時は大丈夫なのだろうかという点も懸念されました。

3.結び

 以上約3時間の巡検でしたが、やはり現地を歩いて直接見聞することには大きな学びがあると改めて思いました。今回の巡検では、地理的分野の「地域調査の手法」「地域の在り方」の単元、歴史的分野の「身近な地域の歴史」に生かせそうな内容が多く含まれています。杉並区の学校ではもちろんのこと、他の地域でも現地調査の視点や方法が参考になると思います。また、現地に行き気づいたことをまとめたり、その後さらに調べたりすることで、学びがさらに深まることを感じました。


社会科学習会ホームページ

社会科学習会は、若手教員を中心に、中学校社会科の指導法や教材開発等について学びを深めたい人たちが集う会です。会長の峯岸誠先生(元 玉川大学教授、元全中社研会長)、岩谷俊行先生(元全中社研会長)のもと、東京都内で基本的に月一回定例会を開き、年に一回は巡検を行っています。学習会への参加は随時受け付けています。社会科の力を付けたい先生方、一緒に勉強しましょう!

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