5月 都内ミニ巡検に行ってきました。

第137回社会科学習会は5月12日に、「東京の尾根と谷」シリーズの3回目として、「神田上水跡を辿る」巡検でした。保護者会や学校行事で、現役の先生方の参加が無いことが残念でした。講師に保坂幸尚さん(元都水道局職員・水道マッピングシステム(株))をお迎えしました。保坂さんは、玉川入水の流路なども調べ、実際に踏破されているそうです。

午後1時  東西線早稲田駅集合、神田川を渡り、水神社(椿山荘の崖の下)に移動し、江戸時代の江戸市街に給水していた上水について講義をいただきました。徳川家康が江戸に入府した当時は、ため池から引いた赤坂上水を利用していました。現在の「赤坂溜池」という地名がそのため池の所在地です。16世紀末には家康による江戸城下のまちづくりが本格化し、人口の増加に伴い、先ず神田上水が作られました。次いで、17世紀の半ばに玉川上水が作られ、江戸の市街地に給水されるようになりました。玉川上水は3つに分流しました。隅田川の西側は神田上水と玉川上水(分流を含む)により賄われていました。

 名 称  完成年度    水源/給水範囲

神田上水 天正18年(1590) 井の頭池、善福寺池、妙正寺池(湧き水)/神田・日本橋・京橋

玉川上水 承応3年(1654) 多摩川/四谷・麹町・赤坂・京橋

本所上水 万治2年(1659) 瓦曽根溜井/本所(小名木川辺りまで)※亀有上水ともいう

青山上水 万治3年(1660) 玉川上水より分水/青山・赤坂・麻布・芝

三田上水 寛文4年(1664) 玉川上水より分水/三田・芝・金杉

千川上水 元禄9年(1696) 玉川上水より分水/白山御殿・湯島聖堂・寛永寺・浅草寺

 松尾芭蕉が若い頃、神田上水の工事に携わったことはよく知られています。芭蕉は水神社に接するような位置に居住していたと伝えられ、それを顕彰する施設が関口芭蕉庵です。関口台の崖下で神田川に面した場所です。

(写真)関口芭蕉案にて

見学後、神田上水取水口大洗堰跡を見学しました。ここから神田川は右に自然河川として江戸市中へ、左に石樋で上水として江戸市中へと分流します。



 この神田上水が向かうのは水戸藩邸下屋敷(現在の小石川後楽園一帯)です。古地図を利用して神田上水の跡をたどり、小石川後楽園まで歩き、地形を考え、上水を引いた人々の思いに触れることができました。小石川後楽園で池や菖蒲田などに使われ、再度地下に潜ります。

(写真)上:小石川後楽園円月橋の前で 下:後楽園の石垣に見られた家紋(江戸城の石垣を移設)

 小石川後楽園から後楽園球場やドームホテルをみながら水道橋に出ました。神田川は当初はここ から掛樋で江戸市中に入っていきました。また、この辺りは舟運が盛んであったようで〇〇河岸という場所が見られました。

 さらに、東京都教職員研修センター、東京都立工芸高等学校などを左に見ながら坂を上り神田上水懸樋跡を見学しました。神田上水を渡すために神田川の上に懸けられた木製の掛樋(水道の橋)はこの辺りにあったようです。その様子は、江戸名所図会「お茶の水水道橋 神田上水懸(かんだじょうすいうけ)樋(とい)」の図で伺うことができます。本郷給水所公苑では、元文京区立第五中学校敷地内から移設した神田上水遺跡を見学しました。 石で組まれた石樋の隙のない組み上げ技術には圧倒されました。(参考:学研 お江戸の科学 東京都水道歴史館

 その後、東京都水道歴史館で江戸上水に関する歴史的な資料、上水井戸や木樋を観察し、江戸時代の技術の高さを見ることができました。5時の閉館のアナウンスと共に東京都水道歴史館を後にしました。ちなみに、団体で見学予約をしていたお蔭で東京水のペットボトルを頂くことができました。真夏日の小半日でしたが大変内容の濃い巡検でした。

 

社会科学習会ホームページ

社会科学習会は、若手教員を中心に、中学校社会科の指導法や教材開発等について学びを深めたい人たちが集う会です。会長の峯岸誠先生(元 玉川大学教授、元全中社研会長)、岩谷俊行先生(元全中社研会長)のもと、東京都内で基本的に月一回定例会を開き、年に一回は巡検を行っています。学習会への参加は随時受け付けています。社会科の力を付けたい先生方、一緒に勉強しましょう!

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